112台が復活したが、瞬殺完売してしまった、ランボルギーニ カウンタック。「カウンタック」のことを思い出そうとしても、当時の記憶なんて、曖昧なものではなかっただろうか?無理もない、なんせ、50年も前のことなのだから…。ちょっとおさらいしたいな、っていう人にぴったりな日本語字幕付き4本の動画シリーズが公開されたので、ご紹介しよう。
最初に登場したのはデザイナーのマルチェロ ガンディーニだ。規制や法的な制約がほとんどなく、デザイナーたちがスタイル的にも技術的にも自由に力を発揮していた特異な時代に生み出されたカウンタックの未来的なラインの立役者である。
1970年代は究極の創造性の時代であり、デザインにとって最も重要な時でもあった。米国とソビエト連邦の宇宙開発競争から現代的なコンピュータの誕生と共に登場したハイテク、鮮やかな色彩を用いた幾何学的なパターンのファッショントレンド、個人主義とジェット機の時代の到来まで、社会的に重要なさまざまな前進が見られた時代だったのである。その中で、世代を超えて寝室(日本の場合はふすまや障子かも)の壁に飾られ、数多くの映画で大きな役割を果たしたカウンタックは、商業的に成功したというだけにとどまらない。現役の市販車であったときから、その実力で世界の自動車の歴史に名を刻み、スタイルとパフォーマンスを代表する存在となっていたのだ。
1971年:「コンセプトカー」カウンタック LP500のデビュー
1970年の夏、フェルッチオ ランボルギーニはミウラという名車の後継という困難な挑戦にふさわしい画期的なクルマを生み出すために、スタッフの意欲を引き出そうとしていた。それは先進的な技術を駆使し、これまで以上に高速で走ることのできる、70年代を象徴するようなスポーツカーでなければならない。12気筒エンジンは継続して使用されることになっていたが、排気量は4リッターから5リッターに引き上げられ、その配置も横置きミッドシップから縦置きミッドシップへと変更された。リアのオーバーハングにあったトランスミッションの制約を回避するため、ランボルギーニの技術責任者であったパオロ スタンツァーニはトランスミッションをエンジンの前に移してシートの間に突き出すように置き、プロペラシャフトはエンジンブロックの中を通らせるという斬新な策を考え出した。スタイル面では、カロッツェリア・ベルトーネでスタイリング部門を率いていたマルチェロ・ガンディーニが60年代的な丸みを帯びたスタイルから離れることを決め、鋭いエッジが特徴的な、車高が低く、幅の広い車体をデザインし、それはまさに驚異的なシェイプだった。
ガンディーニのシザードア採用は、サイド部分の高さに起因する技術的な必要があったためだけではなく、幅を数センチ広くすることで車内に乗りやすくするためでもあった。このような設計を選んだことでフェルッチオにもう一つの改良に関する承認を得て、当時はまだ気が付いていなかったにしても、サンタアガタ・ボロネーゼで生産されるすべての12気筒モデルで最も際立った特徴が誕生することになったのである。
LP500で特に際立っていたのはその鋭いエッジで、それは後に自動車における象徴的なスタイルとなり、17年にわたって極めて変更が少ないまま生産が続いたモデルへとつながっていく。
「カウンタック」という言葉が最初に登場したのは、1971年3月のジュネーブ・モーターショーに向けて最初
のプロトタイプLP500の準備が進められていたときだった。カウンタックは、イタリアのピエモンテ地方の方言で、何かに驚き、驚嘆したときに発する言葉だ。
1973年:第1世代カウンタック LP400の誕生
カウンタック LP500は即座に大成功を収めたが、あくまでも「コンセプトカー」であり人々の反応を見るために設計されたものだったため、まだ市販できる状態ではなかった。市販車の開発が決まると、出来る限り早い量産の実現が目指された。約2年間、ニュージーランド出身の伝説のテストドライバー、ボブ ウォレスによる長時間のロードテストを含む集中的な作業が進められた。
1971年、カウンタックはパリとトリノのモーターショーにも出展された。エンジン冷却とエンジンコンパートメントへのエアインレットに関連して大幅な修正が必要になり、サイドにダクトが設けられたほか、ラジエーターのエアインテークの上にもNACAダクトが追加された。ノーズも数センチ上に上げられ、シェイプに変更が加えられた。
初期のロードテストでのエンジンが未完成であったことが判明したため、代わりに4Lエンジンが採用されることになった。カウンタック LP400は1973年3月のジュネーブ・モーターショーに出展されたシャーシナンバー1120001で公式デビューを果たしたが、これは全体的にスタンダードな量産車に近いプロトタイプだった。カウンタック LP500とLP400には技術的にさまざまな違いが見られる。主な違いは、セミモノコック構造に代わりチューブラーフレームが採用されたことだ。ボディは鋼板からアルミニウム製になり、開発の過程で必要となった外観的、技術的変更もすべて加えられた。ジュネーブ・モーターショーに出展された赤い車両は後に緑に塗装され、1973年のフランクフルト、パリ、ロンドンのアールズコートのモーターショーに出展された。スイスに売却されたこの1台は、2000年代に場所を移し、現在ではアウトモビリ・ランボルギーニが所有、ランボルギーニ・ミュージアムMUDETECで展示している。
カウンタックの市販モデルは、チューブラーフレームの管材の直径が異なり、エンジンとラゲージコンパートメントを閉じるためにグラスファイバー製のパネルと金属薄板のパネルが取り付けられた。極めて剛性が高く、重量的にも利点が多かったことから、この構成は生産期間を通して変更されることはなかった。
ウェーバー45DCOEツインチョークキャブレター6基で燃料を供給する4L(3929cc)のエンジンは、最高出力375hp/8000rpmを発揮し、最高速度は300km/h近くに達した。サスペンションはレーシングカーに由来するもので、フロントアクスルには不等長型アーム、コイルスプリング、油圧ショックアブソーバー、スタビライザーバー、リアアクスルには台形のアッパーアーム、三角形のロアアーム、各ホイールに調整可能なダブルショックアブソーバー、アンチロールバーを備えていた。ブレーキはベンチレーテッドディスクを採用し、レース用に設計された新型のキャリパーが導入された。マルチェロ・ガンディーニの純粋なデザインを極めたとされるLP400は、1977年まで152台の市販車が生産され、今日ではコレクターに最も人気の高いバージョンとなっている。
1978年:カウンタック LP400S
1978年、LP400はカウンタック LP400Sに後を譲った。カウンタック LP400Sでは大幅に扁平率を低めたフロント205/50 VR 15、リア345/35 VRの新しいピレリP7が、新しいデザインのマグネシウムホイールに装着された。大きくなったタイヤサイズを収容するためのオーバーフェンダー、極端に低いフロントスポイラーのほか、オプションとして後年のカウンタックの特徴のつとなるリアウイングも用意された。LP400Sは今日に至るまで、そのスポーティーさ、魅力的なシェイプと未来的な技術で、カウンタックとランボルギーニのDNAを体現した完璧な例だと考えられている。これほどレーシングカー的なスタイルの「普通の」自動車が公道を走っている姿をそれまでは見かけることはなかった。LP400Sは以後のカウンタックシリーズ各モデルのインスピレーションの源となり、LP5000Sが登場する1982年までに235台が生産された。
1982年:カウンタック LP5000S
1979年に技術・生産責任者としてランボルギーニに入社し、後にゼネラルマネージャーに就任したエンジニア、ジュリオ アルフィエーリが最初に手掛けたのは、1982年のジュネーブ・モーターショーに公式出展するLP5000Sに搭載する約5Lのエンジンだった。
LP5000Sは外見的にはと見分けがつかないものの、内部に若干の改良が加えられていた。新型のエンジンは最高出力375hp/7000rpm、最大トルク41.8kgm/4500rpmで、ウェーバー45DCOEツインチョークキャブレター6基をそのまま引き継いでいた(米国に輸入された一部の車両は後に電子燃料噴射のボッシュKジェトロニックを装着)。3月のジュネーブ・モーターショーでLP5000S クワトロヴァルヴォーレが発表される1985年まで、323台が生産された。LP5000Sは米国に初めて正式に輸入され、型式承認を受けたモデルでもあった。
1985年:カウンタック LP5000 クワトロヴァルヴォーレ
クワトロヴァルヴォーレはそれまでの12気筒エンジンをさらに進化させたエンジンを採用した。排気量は5.2Lに増え、1気筒あたりのバルブ数は4本になった。この技術改良はキャブレターの変更も要し、新たにウェーバーDCNFキャブレター6基が導入され、装着場所も横から上に変更された。米国市場向けには、ボッシュ KE ジェトロニックと触媒コンバーター、排ガス回収装置を搭載。出力アップは455hp/7000rpmと驚異的だった。フロントトレッドは4.4mm広げられたが、外見的な変更は最小限に抑えられ、キャブレターの縦方向の搭載に対応するためエンジンフードのふくらみが大きくなっただけにとどまった。
1988年にはサイドスカートが付き、よりモダンな外観になる。米国バージョンはサイドリピーターでも分かるが、リアパネルのバンパーの輪郭と大きなフロントバンパーも特徴的だった。クワトロヴァルヴォーレはランボルギーニが複合素材を初めて市販車に使用したモデルで、複合素材はエンジンフードに使用された。1988年まで、631台が生産された。
カウンタックの生産が開始されてから、その一部は米国にも渡っていましたが、1986年式のLP5000 クワトロヴァルヴォーレまで、米国での正式な型式承認は受けていなかった。
それまでは米国のどのカウンタックにもそれぞれ異なる輸入の経緯があり、公害や駐車時の影響に対する保護を巡る米国の厳しい規制に対応するため数々の改修を要していた。これらの改修はいずれにせよ臨時の措置でしかなく、カウンタックを世界で最も重要とされる市場で販売する際の大きな制約となっていた。カウンタックの年間生産台数の記録が生産期間の後半に達成され、生産開始後15年以上たってからの最後の4年間に全体の50%が集中しているのは、決して偶然ではない。
1988年:カウンタック 25th アニバーサリー
プロジェクトの最後の世代となったカウンタック 25th アニバーサリーは、1988年9月のパリ・モーターショーでデビューした。実は1985年、エンジニアのルイジ マルミローリがジュリオ アルフィエーリの後を継いでアウトモビリ・ランボルギーニの技術部門の責任者に就任した年には既にカウンタックの生産終了の必要性が予見されていた。一方で、生産開始から14年を超えたカウンタックに新鮮さを取り戻すべく、アウトモビリ・ランボルギーニ設立25周年を祝って25th アニバーサリーと名付けられた新バージョンが登場することになった。
外見は大きく変わったものの、構造やシャシーへの変更はそれほど多くなく、エンジンの冷却システムが改良され、シャシーは新しいピレリPZEROタイヤに合わせて調整された。キャビンは、ボルスターがよりコンパクトになったシートが電動で調整可能になり、パワーウィンドウが搭載され、快適さが向上した。ボディスタイルは、当時ランボルギーニに在籍していた若きオラチオ パガーニによって決定的に変えられた。パガーニはシェイプに丸みを加え、オーバーフェンダーやドアの下のプレート部分などの突起部分がより自然な形で組み込まれるようにした。25th アニバーサリーの外見的な特徴としては、新しくなった複数ピース構造のアルミホイールに加え、リアに配置されたエアインテークが丸みを帯びて引き延ばされ、熱排気用のアウトレットも収められた。プロトタイプ カウンタック エボルツィオーネから直接採用されたものも含むこれらの変更は、をの中でもダウンフォースと
ドラッグについて最も優れた結果を出している。
25th アニバーサリーでは、電子燃料噴射装置が搭載された「米国」バージョンと、キャブレターを搭載したその他の地域向けのバージョンとで大きく異なる。最後のカウンタックは、1990年7月4日にヨーロッパ仕様で生産された。ボディカラーはArgeno Metallizzato(メタリックシルバー)で、インテリアにはグレーのレザーを使用していた。ナンバー658を冠したこの1台は、カウンタックの歴史の中で最も生産台数の多い25th アニバーサリーで、最終的なカウンタックの台数は1999台となった(初代は含まず)。この1台は販売されることなく、今もMUDETECで展示されている。