40年前のジャルパを知らないって?映画「ロッキー」や高級ワイン、ボリビアのクーデターなどを参考にして説明しよう。
01 ロッキーのモンタージュに登場
ジャルパが登場していたのは、映画「ロッキー 4」である。ロッキーシリーズの中でも最もロックな作品である「ロッキー V」と混同してはいけない。賛否両論あった作品だからね。
おっと、話がそれてしまった。重要なのは、比較的地味な小さなジャルパが「ロッキー 4」の主役になり、「SOTHPAW(サウスポー)」のナンバープレートを付けて、ロッキーの成功の象徴として登場したことだ。ロッキーの成功はカウンタックには及ばなかったかもしれないし、「ハッピー・バースデー・ポーリー」のロボットにお金をつぎ込んだかもしれない、それはわからない。しかし、彼がクルーズしながら物事を考えるとき、漆黒のジャルパがそこにあったことは確かだ。
02 ほとんど売れなかったランボルギーニ
自動車販売の成功を考えるとき、ある種のルールがある。よほど高価なハイパーカーでもない限り、製造台数は4桁を超えなければならない。しかし、ランボルギーニが全モデルで販売したジャルパの数は420台に過ぎなかった。
しかし、ベースとなったシルエットの販売台数が53台という悲惨な数字であったことを考えれば、ジャルパの方がマシだと言えるだろう。
03 それでも会社を救った
1970年代末のランボルギーニは…まあ、現地の言葉で言えば、essere fino al collo in esso(自分で自分の首を絞めている)ということになるだろうか。70年代半ばの不況、1973年の石油危機、ランボの2車種のラインナップが、当時最大の市場であったアメリカで正式に販売されていなかったこと、軍用車チータがアメリカ軍との供給契約を勝ち取れなかったことなどが、ランボルギーニを壁際に追いやった。そして、その後は、それは壁に貼り付けられた。
管財人の下、新しい経営陣の下、計画は明確だった。シルエットを実際に人々が買うようなものに作り変え、できるだけ多く販売し、オオカミをドアから遠ざけることだった。そして、400台を超えるジャルパのオーナーが見つかっただけでも、十分だった。
その後、ランボはその資金を使ってカウンタックを改良し、ついにLP500Sでアメリカでの販売許可を得た。カウンタックをさらに改良したLP 5000 クアトロバルボーレと、チーターを究極のバニティービークルとして再構築したLM002によって、ランボルギーニは崖っぷちに立たされた会社から、1987年にクライスラーに2500万ドル(28億円)で売却された会社になった。今日のお金では6,100万ドル(70億円)以上である。
そういえば、AMジェネラル社はアメリカ軍のハンビーを受注していたっけな。
04 実はウラッコの進化系
てか、正確には、ウラッコのドロップトップバージョンの進化形だね。つまり、ウラッコの進化版の進化版なのだ(バカボン風)。しかし、それでは何だか見出しが濃くなってしまうので、もっとシンプルにしたのである。
さて、そのウラッコ。多くの人にとっては、昔「トップギア」というテレビ番組でジェームズ メイが乗っていた、あまり役に立たない黒いスーパーカーのことを覚えてるかと思う。しかし、実際に機能する車体を見つけたら、それはちゃんとしたものだった。ジャン パオロ ダラーラがエンジンを、マルチェロ ガンディーニがフォルムをデザインし、クルマ自体もフェラーリ ディーノ 308やマセラティ メラクを相手にするように設計された。不思議なことに、トップギアTVの映画に登場したのはこの2台だった。
05 カウンタックの影に隠れていたが、実際には日常の運転に適していた
カウンタックが日々の生活では少々扱いにくいクルマであることは、あまり知られていない。マイ・ブラッディ・ヴァレンタインのコンサートのようにうるさく、クラッチを使うとレッグプレスでトレーニングしてるかのようになり、走っている道路よりも広く、視界は平均的な吹雪のように良好だった。
一方、ジャルパは、クラッチがかなり軽く、視界も良好で、快適で静かなインテリアを持ち、ボルトオンアーチを装着しても、片側の車線に収まる程度の幅しかなかった。もちろん、現代の車に比べれば、ステアリングも、そしてなぜかスロットルペダルも、Netflixの「ブラックミラー」のエピソードのように重たい。
06 その時、フェルッチオはまだ指揮をとっていなかった。
70年代初頭、ランボルギーニはちょっとした苦境に立たされていた。フェルッチオのトラクター・ビジネスが最初に苦しんだのは、ランボのせいではないと主張するような一連の出来事のせいだった。輸出事業、注文のキャンセル、ボリビアでのクーデターなど、いろいろなことがあったのである。そこで、彼は別のトラクター事業者に売却したのだ。ランボルギーニの車については、フェルッチョは1972年に51%の支配権をスイスの投資家に売却し、1973年の石油危機の後、残りの49%を別の投資家に売却した。ジャルパが登場したのは、これらの投資家がランボルギーニを窮地に追い込み、管財人が介入してからのことである。
一方、フェルッチオは、トラジメーノ湖畔の別荘に引きこもってワインを造っていたが、これが実に美味であった。トップギアのワインレビューにご期待ください。姉妹誌「Top Beer」創刊への売り込みはうまくいかなかったが、希望は永遠に持っておくものだ。
07 ウルスが出るまで最後のランボV8だった
ウルスは、人気があるとはいえ、「ランボルギーニ」と聞いて真っ先に思い浮かべるような車ではない。エンジンにしても、ランボというよりはVW-アウディのV8であり、ジャン パオロ ダラーラが設計したオーバースクエアのオールアルミV8でもない。そう、あのジャンパオロ ダラーラだ。
エンジンにありがちなことだが、最高のものは最後まで残されている。ウラッコ P300の3.0リッターから3.5リッターにストロークアップし、ウラッコやシルエットのバンクごとのシングルカムではなくクアッドカムを採用した255bhpのV8は、ジャルパの後部に搭載され、スタンディングスタートから60秒まで…いや、6秒前後で発進することができた。
ええ、本当だよ。当時のレポートでは、5.8秒から6.8秒の間とされているが、最近測り直すと、前者よりも後者の結果の方が多いだろう。
08 ちゃんとしたトランクがある
そう、これは、破産したランボルギーニがお届けする、実用的なスーパーカーだった。それは理にかなっているから。
しかし、この地球上での数十年で何かを学んだとすれば、人類は感覚や論理、あるいは自衛といったつまらない制約のもとでは活動しないということだ。私たちはそれを超えて進化してきたに違いない。いかん、つい、話がそれてしまった。
要するに、もしあなたがジャルパを見つけ出し、イタリアのメーカーから40年前の限定生産のスーパーカーの部品を見つけ出し、それらの部品がうまく機能するように説得して、動くマシンを作ったとしたら、あなたはジャルパが実用的なスーパーカーであることを簡単に納得させられるだろう。一方で、あなたの配偶者は?…知らん。それはあなたの仕事であって、私たちの仕事じゃない。