トップギア マガジン 主幹エディター、ジェイソン バーロウ
一般人が初めて運転するR35に乗って東京を出発したことは、どこか味のあるものだった。とりわけ真夜中過ぎであったし、その2時間前には気づいたら私は他の大きな男と一緒になって、泊まっていたホテルの37階で鍵の掛かった防災扉の蝶番を蹴っていたからだ(タワーリング・インフェルノではなかったものの、実際に火災があったのだ)。
我々は南を目指して湯河原パークウェイを走った。カメラマンのアントン ワッツがサムライ スティグとか何とかという人物を説得し、マーシャルアーツのようなハイキックをしてボンネットの上を横断してもらった場所だ。素晴らしい画である。
マン島のどこかでアウディ RS6に乗っている時にR35(当時ヨーロッパで唯一の一台であった)に追い抜かされてしまったことを、ポール ホレルがどこかで述べているだろうが、私はその時運転していなかったのでカウントには入らない。アウディのほうが良い結果に終わったのだ。
しかし何よりも私が覚えているのは、伝説の「GT-Rの生みの親」である水野和敏との出会いである。シルバーストーンでアップグレードした2012MY(上記写真)を披露している時のことだった。今では誰もが、GT-Rとは、それだけで素晴らしく、ずっしりとした自動車だということも知っている。このセオリーを水野さんに投げかけ、軽い返答を期待していると、フルパワーでヘアドライヤーをかけられたような答えがかえってきた。それも、核融合並みの熱いヘアドライヤーだ。
「私のクルマは重過ぎると考えるのは間違っている!」と、彼は大声で言った。さらに「ジャーナリストはみんなして『GT-Rは重い、重い、重い、もっと軽くしなきゃ、軽量、軽量、軽量化!』って言うんだ。」と、彼はジャーナリストたちのようすを面白おかしく真似て言った。「言わせてもらうよ。ジャーナリスト達はもっとプロとしての思考を育まなければいけないぞ!もっと勉強しろ!もっと考えろ!GT-Rにはこの重量が必要なんだ。軽いクルマじゃ言うことを聞かないんだ。軽量化は危険で、ユーザー全員が全員、軽いクルマを運転できるとは限らないからね。君達には顧客への責任があるんだよ。私もお客様への大きな責任を担っているんだから」
彼は聡明だった。クレイジーだが間違いなく天才だ。
「私は死ぬまで完璧な画を追い求めて描き続ける画家のようなものなんだ。GT-Rも画家にとっての絵と同じさ。完璧などあり得ないけど、それでも続けていかないといけないんだ」
このように語るエンジニアはフェラーリやポルシェでは見つからないだろう。