ロールス・ロイスが、顧客の妻へのオマージュとして製作した世界に1台の特注モデル「ファントム・ハミングバード」を発表した。ブランド史上初となるアバロンシェル(アワビ貝)の象嵌細工を採用し、数ミリのパーツに45時間もの手作業を捧げた狂気の職人技が光る。最高級のV12サルーンと極小の鳥「ハチドリ」が交錯する、常識外れのロマンチシズムとイギリス的ユーモアに溢れた究極のビスポーク作品に迫る。
世の一般的な夫という生き物は、妻への感謝や愛情を示す際、せいぜい駅前の花屋で少しばかり見栄えのいいブーケを買うか、あるいは少し奮発してミシュランの星付きレストランを予約する程度で「よし、これで完璧だ。俺は素晴らしい夫だ」と胸をなでおろすものである。記念日の朝に慌ててオンラインショップの「お急ぎ便」をポチる輩さえいるだろう。しかし、あなたの銀行口座の残高が小国の国家予算に近い数字を示しており、なおかつロールス・ロイスの「プライベート・オフィス・ドバイ」の特別顧客リストに名を連ねている場合、その愛情表現のスケールは我々常人の理解をはるかに超えた次元へと突入する。
今回、グッドウッドのファクトリーから我々の目の前に舞い降りたのは、あるVIP顧客が自身の愛する妻へのオマージュとして特別にオーダーしたという商品名「ファントム・ハミングバード」である。ベースとなっているのは、ただでさえ巨大なファントム・エクステンデッド(地方の郵便局ほどのサイズ感と、中世の城郭に匹敵する威厳を誇る、あの車だ)。価格は当然ながら非公開のワンオフ・コミッションであり、限定数は世界にただ1台のみである。
この巨大な陸のクルーザーに与えられたデザインテーマは、その名の通り「ハチドリ(ハミングバード)」。喜びやしなやかな強さ、そして日常のあらゆる瞬間の中に美を見出す力を象徴するというこの鳥だが、体重わずか数グラム、手のひらに収まるほどの極小の鳥を、車重2.7トンを優に超え、深淵なるV12ツインターボエンジンを搭載する超弩級サルーンで表現しようというのだから、ここにはイギリス特有の強烈なアイロニーとユーモアを感じずにはいられない。しかし、ロールス・ロイスはこの途方もないテーマに対し、微塵も笑うことなく、むしろ過剰なまでの真剣さで向き合った。
我々トップギアの編集部が本当に呆れ返り、そして最終的にひれ伏すことになったのは、そのテーマを車内で表現するために用いられた「手段」の異常性である。ロールス・ロイス・モーター・カーズのヘッド・オブ・ビスポークであるフィル・ファーブル・ドゥ・ラ・グランジュ率いる、妥協という言葉を知らない職人集団は、このたった1台の車のために、ブランド史上初となる「アバロンシェル(アワビ貝の真珠層)」を用いたマルケトリー(象嵌細工)を開発・採用したのだ。
アバロンシェルといえば、光の当たり方で青緑色に妖しく輝き、見る角度によって魔法のように表情を変える美しい自然素材だ。だが、ご存知の通りこれは非常に薄く脆い。ちょっとでも理不尽な力を加えたり、乾燥させすぎたりすれば、朝食のポテトチップスのようにあっさりと砕け散る。我々が普段愛好する、エアコンも内張りも剥がされたスパルタンなサーキット専用車のカーボンファイバーとは対極にある、最も厄介な代物だ。そんな神経質な素材を、常に振動と温度変化に晒される自動車のキャビンに持ち込み、何十年も耐えうるようにウッドパネルへ埋め込むというのだ。
彼らはこの技法を完全に確立するまでに、構想から完成までなんと9か月以上の歳月を費やし、6回もの試作を繰り返したという。現代の効率主義とコスト削減に毒された一般的な自動車メーカーなら、最初の会議から5分で「3Dプリンターで作った樹脂にホログラムのシールを貼ろう。誰も気づかないさ」と決断するところだが、グッドウッドのビスポーク・コレクティブに属するデザイナーやエンジニア、職人たちの辞書に「妥協」や「ごまかし」という単語は載っていない。
特筆すべきは、リアシートの乗員(おそらくは極めて幸運な妻)がシャンパン・フルートを置くために使用する左右のピクニック・テーブルである。ここには飛翔するハチドリが描かれており、それぞれ53片のアバロンシェルとマザー・オブ・パールが組み込まれている。ハチドリの翼部分だけで18片ものパーツがひしめき合っているのだ。さらに、2つのリアシートの間に鎮座するリア・ウォーターフォール・パネルには、84片からなる優雅な植物モチーフが展開されている。
最も我々を戦慄させるのは、その微細な加工工程だ。レーザーで各パーツを切り出す際、熱で素材の縁が微細に焼け焦げて縮む分をあらかじめ計算し、完成寸法よりも「0.06mm」だけ意図的に大きくカットするのだ。0.06ミリである。人間の髪の毛の太さにも満たない誤差だ。その後、熟練の職人が顕微鏡レベルの目視と手作業で少しずつ削り出し、隣り合うパーツとの継ぎ目が完全に見えなくなるまで隙間なくはめ込んでいく。ハチドリの翼のように極めて精緻な組み付けが求められる部分において、この手作業はもはや神業の領域に達している。
電子制御の工作機械全盛の時代に、血と汗と研磨粉にまみれた究極のアナログ作業。これらすべてのパーツを切り出して組み付け、ピクニック・テーブルとリア・ウォーターフォール・パネルの3つのパネルをラッカーで仕上げるためだけに費やされた作業時間は、合計で45時間に及ぶという。一般的な量産自動車メーカーであれば、その45時間の間に、家族向けのハッチバックを何十台もラインからロールオフさせ、利益を計上しているだろう。この果てしない「無駄」こそが、真のラグジュアリーの正体なのである。
インテリアのカラーパレットもまた、狂気じみている。先駆的なアバロンシェル・マルケトリーを引き立てるため、パネルのベースには「アッシュ・バール」を採用。そして、ハチドリのデザインを構成する重要な要素として「シルバー・バーチ」が用いられているのだが、木目の表情がデザイン全体と寸分の狂いなく調和するように、厳選された「たった一本の原木」からすべてのパーツを切り出しているというのだ。「隣の木でも大体同じだろう」という我々の浅はかな考えは、彼らの前では大罪に等しい。
シートには「クリーム・ライト」のレザーを惜しげもなく張り巡らせ、「モカシン」と「タン」のディテールで空間を引き締めている。足元には「シーシェル」カラーの分厚いカーペットが敷き詰められ、頭上にはロールス・ロイスお馴染みのスターライト・ヘッドライナーが瞬く。泥まみれのオフローダーで泥水を撥ね飛ばし、キャブレターの吸気音に酔いしれる快感も車好きの醍醐味ではあるが、この「絶対に泥のついた靴で踏み込んではいけない」と空間そのものが圧をかけてくる車内には、別の意味で背筋が伸び、畏怖の念すら抱かされる。
エクステリアに目を向ければ、そこにも抜かりはない。ボディ下部は深みのある「ワイルドベリー」、上部は「ホワイト・サンズ」のツートーンで仕上げられている。そして、その2色を隔てるホワイト・サンズのコーチライン上には、車体に沿って飛翔するハチドリの手描きイラストが添えられているのだ。ただでさえ、一本の真っ直ぐな線をフリーハンドで引くことのできる職人が、グッドウッドの工場に片手で数えるほどしかいないことは有名な話だが、そこにハチドリまで精密に描き足してしまうのだから、もはや彼らの視力と集中力が人間離れしているとしか思えない。
自然界の精緻な美と生命の息吹を讃える、この極上のビスポーク作品。プレスリリースにはご丁寧に、WLTP複合モードでのCO2排出量が373-362 g/km、燃費が17.2-17.7 mpg(約6.1-6.3 km/L)という数字が記載されている。およそエコノミーやエコロジーとは対極の銀河系に存在する大排気量エンジンの大飯食らいな数値を誇示しながら、アワビ貝の輝きで自然の優美さを謳い上げるという、この壮大なる矛盾。しかし、それこそがロールス・ロイスの愛すべき真骨頂である。
薄っぺらなエコプラスチックや、どこから拾ってきたか分からないリサイクル素材で覆われた無機質なEVが「正義」としてもてはやされる現代において、数ミリの貝殻の欠片を埋め込むためだけに45時間もの手作業を捧げるこの「ファントム・ハミングバード」は、世間一般から見ればあからさまに時代錯誤かもしれない。
だが、自動車が単なるA地点からB地点への移動の道具ではなく、人間の底なしの情熱と狂気、過剰なまでの職人技、そして何よりも「愛」の結晶であり得ることを、これほどまでに雄弁に語る車は他に存在しない。もしあなたが、次回の結婚記念日に配偶者へ何をプレゼントすべきか頭を悩ませているなら、トップギアから一つだけ重要なアドバイスをしておこう。
決して、この車の存在をパートナーに教えてはならない。さもなければ、あなたがドヤ顔で渡そうとしている駅前の花束とレストランの予約が、ただの惨めな雑草と粗末な食堂にしか見えなくなってしまうからだ。



