セイコーウオッチから<セイコー プレザージュ>クラシックシリーズの新作が9月5日に発売される。国産初の腕時計「ローレル」の意匠を継承し、熟練職人が手作業で仕上げる「琺瑯(ほうろう)」と「漆」のダイヤルを採用した意欲作だ。効率化が叫ばれる現代に、あえて0.01mmの精度に命を懸ける日本のクラフツマンシップの狂気とロマンを、徹底解剖する。
我々を取り巻く現在の自動車産業は、どうにも退屈な方向へ全力疾走している。キャビンには巨大なタッチパネルが鎮座し、ステアリングから伝わるべき路面のインフォメーションは無菌室のように遮断され、クルマは単なる「移動する家電」へと成り下がろうとしている。時計の世界も同じだ。手首に巻かれた黒い四角いデバイスは、我々の心拍数を監視し、新着メールを通知し、あろうことか「そろそろ立ち上がって運動しろ」と説教までしてくる。全くもって余計なお世話である。我々が求めているのは、過保護な電子制御ではなく、魂の宿った機械なのだ。
そんなデジタル疲労に陥り、クルマのECU(電子制御ユニット)を窓から投げ捨てたくなる衝動に駆られている我々の前に、セイコーから一通のプレスリリースが叩きつけられた。<セイコー プレザージュ>クラシックシリーズの新作である。スマートウォッチ全盛のこの時代に、彼らが声高に叫んでいるのは「最新のOS」でも「Bluetooth接続」でもない。「琺瑯(ほうろう)」と「漆」である。そう、100年以上前の技術だ。これは例えるなら、自動車メーカーが突如として「最新型スポーツカーのシャシーには、カーボンファイバーの代わりに、選び抜かれた極上のトネリコ材(木材)を使用しています。職人が手作業で削り出しました」と発表するようなものである。英国のモーガンならいざ知らず、世界的企業がやることとしては正気の沙汰ではない。だが、我々トップギアは、こういう無駄とも思える情熱にめっぽう弱いのだ。不本意ながら、この時代錯誤なロマンの塊について語らねばなるまい。
まず歴史の授業から始めよう。今回の新作は、1913年に製造された国産初の腕時計「ローレル」の意匠を継承しているという。1913年といえば、自動車の世界で言えばヘンリー・フォードが大量生産の基礎を築いていた頃であり、日本ではようやく自動車産業の産声が聞こえ始めたばかりの時代だ。この「ローレル」は、その歴史的価値から2014年に日本機械学会より「機械遺産」に認定されている。つまり、単なる時計のカラーバリエーション追加などではなく、日本の産業革命におけるモニュメントを現代に蘇らせる試みなのだ。
今回発表された2つのレギュラーモデルのうち、まずは「琺瑯ダイヤル」を採用した「HCC005J」を見てみよう。希望小売価格は179,300円(税込)である。この白い文字盤は、ただの白いスプレー塗料ではない。金属の表面にガラス質の釉薬を焼き付ける、あの琺瑯だ。この工程の監修を務めるのは、富士ホーロー株式会社つくば工場の横澤 満と、その技術を受け継ぐ内山 和則である。驚くべきことに、この横澤 満という職人は、塗布面の仕上がりのわずか0.01mmの厚みを見抜く眼力を持っているという。0.01mmである。現代の自動車工場であれば、高精度のレーザースキャナーとAIが担当する領域だ。それを人間の「目視」でやってのけるというのだから恐ろしい。キャブレター時代の英国製GTカーを、排気音とエンジンの振動だけで完璧に同調させる熟練メカニックのような、ある種の変態的な領域である。さらに、その日の気温や湿度に応じて釉薬の配合を調整するという。もはや工業製品というより、気難しい生き物を扱っているようなものだ。
この執念とも言える手作業によって焼き上げられた琺瑯ダイヤルは、独特の奥行きと温かみのある白色を放つ。さらに、オリジナルの「ローレル」に倣い、「12」の数字だけが赤く彩られている。この赤が、全体の印象を引き締める見事なアクセントになっているのだ。青く塗られた針も、光の加減で表情を変え、琺瑯の柔らかな質感と見事に調和している。
次に、もう一つの狂気、「漆ダイヤル」を採用した「HCC006J」だ。こちらの希望小売価格は209,000円(税込)。漆である。つまり、樹液だ。金属の文字盤に樹液を塗ろうという発想自体が、現代の合理主義から見れば完全に狂っている。このモデルの監修は漆芸家の田村 一舟が務め、実際の作業は越前漆職人の辻 利和と越前漆芸家の辻 美月貴が中心となって行っている。塗りと研ぎの工程を幾重にも重ねることで、漆ならではの深く艶やかな黒色を実現しているのだ。何層にもわたって手作業でクリアコートを吹き、水研ぎを繰り返して鏡面仕上げを作り上げる、クラシックカーのコンクール・デレガンスに向けた究極のレストア作業のような、果てしない時間と労力が注ぎ込まれている。
漆黒のダイヤル上には、漆の艶を際立たせるための金色がインデックスと針に配されている。この金色のアクセントが、華やかさと豪華絢爛な表情を作り出している。艶を抑えたインデックスと時分針は、深い黒のダイヤルとのコントラストにより、優れた視認性をも確保しているという。単なる工芸品としてガラスケースに飾っておくのではなく、実用品としての時計の役割を忘れていない点は評価に値する。
これら2つの強烈な個性を持つダイヤルを収めるケースは、外径39.6mm、厚さ12.4mmに抑えられている。現代の腕時計としては非常に常識的で、日常使いに心地よいサイズ感だ。ガラスの縁を極力細くすることで、ダイヤルの美しさを最大限に引き立てる「引き算の美学」が取り入れられているという。風防には内面無反射コーティングが施されたデュアルカーブサファイアガラスが採用され、滑らかなケース造形と見事に調和している。ケース本体はステンレススチール製で、琺瑯ダイヤルの「HCC005J」には、日常の小傷から本来の輝きを守るセイコー独自の表面加工技術「ダイヤシールド」が施されている。これは、クラシックな見た目のボディに現代的な防錆コーティングを施すような、実用性に向けた現実的な配慮と言えるだろう。防水性能は日常生活用防水に留まるため、間違ってもこれを着けたままオフロード走行で泥沼に飛び込んだりしてはいけない。あくまで、週末の朝にガレージに収まった愛車のノーズを眺めるような、静かな時間のためのツールである。
心臓部であるムーブメントには、約72時間のパワーリザーブを誇るメカニカルムーブメント「キャリバー6R5H」が搭載されている。金曜日の夜に時計を外し、週末を油まみれになって過ごしたとしても、月曜日の朝にはまだ正確に時を刻み続けている計算だ。自動巻(手巻つき)で、日差は+25秒~-15秒。GPSで時刻補正を行うデバイスと比べればズレはあるだろう。しかし、電子制御ゼロのトラックツール(サーキット専用車)をマニュアルトランスミッションで操る歓びを知る者にとって、この程度の「ブレ」は機械の鼓動であり、愛嬌である。手首に触れるストラップには、牛皮革にオイルを染み込ませたオイルレザーが採用されている。しなやかさと耐久性を兼ね備えたこのレザーは、LWG(レザーワーキンググループ)の認証を取得しているタンナーで生産されたものだという。
ちなみに、セイコーウオッチはこのプレザージュを通じて、東京都が推進する「江戸東京きらりプロジェクト」にも参画しているという。江戸東京の伝統ある技や老舗の産品に新たな視点で磨きをかけ、国内外に発信していく取り組みだ。要するに、国を挙げてこの「変態的な職人技」を世界に自慢しようというわけだ。大いに結構である。
さて、これら2つのモデルは9月5日(土)に発売される。冷静に考えてみてほしい。0.01mmの違いを見抜く職人が手作業で釉薬を調整し、あるいは漆芸家が何層も樹液を塗り重ねて研ぎ出すという、途方もない手間暇がかかった文字盤を搭載しているのだ。それでこの価格である。正直なところ、桁が一つ違うのではないかと疑いたくなるレベルだ。我々は日々、最新のテクノロジーと効率化の恩恵を受けて生きている。しかし、時として無性に、人間の手と執念が生み出す「不合理なまでの美しさ」に触れたくなる瞬間がある。エアコンもパワーステアリングも無い、むき出しの金属とガソリンの匂いだけが存在するクラシックカーのステアリングを握りたくなる衝動と同じだ。セイコーが送り出してきたこの2つのプレザージュは、まさに手首に巻くための「美しい不合理」である。彼らの異常なまでの素材への執着と、数ミリ以下の世界にかける無駄とも思える労力に対し、我々は呆れつつも、最終的にはひれ伏すしかないのである。全く、日本のクラフツマンシップというやつは、底知れない狂気を秘めている。
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