世界のコンパクトカーの絶対的基準であるゴルフが8.5世代へと進化した。日常を完璧にこなすeTSIの静寂の先には、富士スピードウェイで牙を剥く2つの極致が待っていた。純粋な対抗心を燃やすGTIのFFスポーツ性と、333馬力を電子の魔法でねじ伏せるRの全能感。トップギア ジャパンがその深淵を解き明かす。
メートル原器の帰還と、御殿場への往復路
自動車業界において、フォルクスワーゲンのゴルフほど退屈で、そして同時に恐るべき存在はない。1974年の初代誕生以来、このクルマは常にコンパクトカーの世界的な「メートル原器」であり続けてきた。ライバルたちはこぞってこのドイツ製のハッチバックを分解し、研究し、「打倒ゴルフ」を掲げては散っていった。今回、我々トップギア ジャパンのチームは、8.5世代へと進化を遂げたゴルフのステアリングを握り、東京から富士スピードウェイ・ショートコースのある御殿場を目指した。往復の公道テストの相棒に選んだのは、もっともベーシックな「eTSI Active」である。
東名高速道路を西へ向かってクルージングしていると、このクルマの素性の良さが徐々に、しかし確実に浸透してくる。搭載されるDXD型1.5リッター直列4気筒ターボエンジンは、48Vマイルドハイブリッドシステムと組み合わされ、116PSという平和な出力を発揮する。モーターが発進時のターボラグを綿あめのように優しく包み込み、7速DSGは気がつけばギアを上げていく。驚くべきはその静粛性と直進安定性だ。強靭なMQBプラットフォームの骨格は、路面の継ぎ目をまるで上質なスチームアイロンのように平滑に伸ばしていく。
正直に言おう。刺激はない。金曜の夜に飲む温かいミルクのように安心しきった空間だ。しかし、この「日常の平穏」こそが、フォルクスワーゲンが掲げる「Engineered for everyone(技術の民主化)」の結晶なのだ。一部の富裕層だけでなく、誰もが高度なドイツ工学と安全性を享受できる。このeTSIの、ある種退屈なまでに完璧に躾けられた基本骨格が、この数時間後に我々がサーキットで直面する狂気じみたモンスターたちの、壮大な伏線となっていることなど、この時の我々は知る由もなかったのである。
東名高速を降り、御殿場市街から富士スピードウェイへと続くワインディングロードに差し掛かっても、eTSIの振る舞いは徹頭徹尾、気の利く英国人執事のようだった。1.5リッター直列4気筒「DXD型」ターボエンジンの最高出力はわずか116PS。スーパーカーのスペックを見慣れた昨今の馬力インフレ時代においては、パブの笑い話にされかねない控えめな数字だ。しかし、ここに48Vマイルドハイブリッドという黒衣(くろご)が加わることで、事態は極上のマジックへと変貌する。
信号待ちからの発進や、タイトな上りコーナーの立ち上がりでアクセルを踏み込むと、ターボが息を吸い込むほんの一瞬の隙を、モーターが「お任せを」とばかりに無音で埋め尽くすのだ。変速ショックという概念を過去のものにした7速DSGと相まって、その加速はまるで熱したフライパンの上を滑るバターのように、どこまでも滑らかでシームレスである。
特筆すべきは、その足捌きだ。御殿場特有の荒れた路面や無骨なマンホールを容赦なく踏み越えても、極めて強靭なMQBプラットフォームと熟成されきったサスペンションが、衝撃をすべて「車外で起きた些細な出来事」へと変換してしまう。キャビンを満たすのは、タイヤがアスファルトを撫でる微かな囁きだけ。ステアリングからは確かな接地感が伝わってくるのに、車体は決して無駄に揺すられない。退屈なほど完璧に仕立てられた、ドイツ製の上質な実用時計を身につけているかのようだ。
右足に力を込めても、アドレナリンは一滴も分泌されない。しかし同時に、ドライバーの疲労ゲージも東京を出発した時から1ミリも動いていないのだ。この圧倒的な「日常の平穏」こそが、すべての基準値と呼ばれるフォルクスワーゲンの真骨頂である。そして、この牙を抜かれたような穏やかなハッチバックが、数時間後にサーキットで我々を恐怖と歓喜のどん底に突き落とすモンスターたちと、まったく同じ骨格を共有しているという事実に、私は静かな戦慄を覚えた。
富士ショートコース攻略①:GTIが突きつける「対抗心」と腕試し
御殿場に到着し、富士スピードウェイのショートコースのピットレーンに降り立つ。そこには、フロントグリルに赤いラインを引き、タータンチェックのシートを備えた「対抗心の象徴」がアイドリングを打っていた。Golf GTIである。1976年、有志のエンジニアたちが勤務外の秘密プロジェクトとして生み出したこのクルマは、当時の格上だったスーパースポーツたちをアウトバーンで追い回すために作られた。その反骨心のDNAは、最新のEA888 evo4型 2.0リッター直列4気筒ターボエンジンに受け継がれている。先代から20PS引き上げられた265PSと370Nmの強大なトルクが、前輪だけを駆動するという狂気の沙汰だ。
スーパーGTドライバーの堤 優威氏によるコースの説明を受けたあと、いよいよ走行だ。コースインし、最初の右タイトコーナーに向かってブレーキングを開始する。GTIはパブで喧嘩を売ってくる血の気の多い若者のように、ダイレクトな反応を返してくる。特筆すべきは、プログレッシブステアリングの恩恵だ。ロック・トゥ・ロックが一般的な2.7周から2.1周へと極限まで縮められており、手首を少し返すだけでノーズが鋭くインを突く。フロントタイヤが悲鳴を上げそうになる限界領域、FF車なら間違いなくアンダーステアに陥り、コース外のコンクリートウォールと熱烈なキスを交わす場面。だが、ここで電子制御油圧式フロントディファレンシャルロック(VAQ / XDS)が目覚める。
クリッピングポイントでアクセルを乱暴に踏み込んでみる。イン側の前輪を軽くつまむようにブレーキをかけつつ、アウト側のタイヤに爆発的なトルクが叩きつけられる。車体は外に膨らむどころか、路面を鋭い爪で掻き毟りながら、狙ったレコードラインを寸分違わずトレースしていく。GTIはごまかしが効かない。ステアリングの切り角、アクセルの踏み込み量、すべてがダイレクトに挙動に現れる。素手で荒馬のロデオを乗りこなすような、ヒリヒリとした純粋なスポーツ性。ドライバーの腕が試される、極めて挑戦的なフロント・ホイール・ドライブの金字塔がここにあった。
富士ショートコース攻略②:Rがもたらす「333PSの全能感」と電子制御の魔術
GTIでアドレナリンを使い果たし、汗だくになってピットに戻ると、今度はブルーのキャリパーを鈍く光らせる最高峰モデル、Golf Rが冷徹な表情で待っていた。2002年のR32から連なるこのフラッグシップは、もはやハッチバックの形をした別の何かだ。ボンネットの下には、なんと333PSまで出力を高められた2.0リッターTSIが押し込まれている。
「R」のバッジが意味するものは、GTIのような腕自慢の格闘技ではない。サヴィル・ロウのテーラーメイドスーツの裏側に、軍事兵器クラスのパワードスーツを忍ばせたような、圧倒的な全能感だ。コースインしてアクセルを踏み込んだ瞬間、その暴力的な加速に息を呑む。0-100km/h加速4.6秒。レースモードを選択すると、アクセルをオフにしてもスロットルバルブが僅かに開いたまま維持され、タービンを回し続ける「プリロードターボチャージャー」が機能する。コーナー出口でのターボラグなどという概念は、このクルマの辞書には存在しない。右足の動きと同時に、弾き出されるように車体が前に飛び出す。
そして最大のハイライトが、「Rパフォーマンストルクベクタリング」だ。これはもはや物理法則に対する反逆である。リアアクスルに搭載された左右独立の電子制御多板クラッチが、なんと後輪のトルク配分を0:100から100:0まで自在に可変させるのだ。タイトコーナーでアクセルを踏み込むと、信じられないことが起きる。アウト側の後輪に100%のトルクが集中し、まるで川でボートを漕ぐときに片側のオールだけを強く引いた時のように、車体全体がぐぐっとコーナーのイン側へと吸い込まれていくのだ。
アンダーステア? それは前世紀の遺物だ。GTIがタイヤと路面の摩擦係数と格闘していたのに対し、Rは「曲がる四駆」という魔法のレールの上を滑空している。ストレートエンドでのフルブレーキングでも、18インチのフローティングディスクブレーキが熱膨張による歪みを拒絶し、何度でも同じ制動力を保証する。クルマが仕事をして、ドライバーをスーパーマンに仕立て上げる絶対的な安心感がそこにはあった。

インフルエンサーが暴いた「馬力と安心の逆説」
ピットレーンに戻り、焦げたブレーキパッドと焼けたゴムの匂いが漂う中、今回一緒にコースを走ったインフルエンサーのCar girl Moé(Moeさん)に声をかけた。私は彼女の感想を聞く前から、自分の中でシニカルな結論を用意していた。トップギア ジャパンの編集者として、こう予測していたのだ。「サーキット初心者の彼女にとっては、FFで挙動が分かりやすいGTIの方が軽快で乗りやすく、333PSを四輪で振り回すRは恐怖の対象だったに違いない」と。
しかし、ヘルメットを脱いだ彼女の口から出た言葉は、私の浅はかな予測を見事に粉砕した。
「緊張しすぎて上手に走れなかったんですけど……GTIはより軽やかでダイレクトな感じがあって、私にはうまく乗りこなせなかった気がします」と彼女は少し悔しそうに笑った。「日常使いとスポーツドライビングのバランスがすごく良いのは分かったんですけど、緊張で本領を体感しきれませんでした」
そして、彼女は目を輝かせてこう続けたのだ。
「でも、Rは違いました。アクセルを踏んだときの力強さが一段上で、馬力の差でスピードも出たんですけど……四駆なのと電子制御のおかげもあってか、初心者の私でもRの方が圧倒的に乗りやすく感じたんです。スピードが上がっても車の挙動が落ち着いていて、安心感がある。個人的にはRの方が運転しやすくて、純粋に走っていて楽しかったです!」
この瞬間、私はハッとした。彼女の素直で感覚的な証言こそが、フォルクスワーゲンのエンジニアたちがウォルフスブルクの研究所で昼夜を問わず追求してきた「真理」を突いていたのだ。
我々のような自動車メディアの人間は、つい「馬力が高い=扱いにくい」「高度な電子制御=玄人向けのタイムアタック装備」と固定観念で語りがちだ。しかし現実は真逆だった。333PSという常軌を逸したパワーを持つRが、なぜGTIよりも初心者に「安心感」を与え、「楽しい」と言わせたのか。それは、4MOTIONやビークルダイナミクスマネージャー(VDIM)といった高度な電子制御が、単にコンマ1秒を削り取るためだけに存在しているのではないからだ。
それらの魔術的なテクノロジーは、「ドライバーのミスを許容し、恐怖心を取り除き、安心して性能を引き出させるため」に存在しているのである。ダイレクトすぎるGTIはドライバーの未熟さを容赦なく突きつけるが、Rの高度な電子防壁は、ドライバーを優しく包み込み、まるで自分自身の運転が上手くなったかのような錯覚(いや、全能感)を与えてくれる。速いだけではなく、その速さをドライバーが扱いやすいからこそ、走ること自体を楽しめる。これこそが、彼女が身をもって証明した「馬力と安心の逆説」であった。
技術の民主化が生んだ2つの極致
日が傾き始めた富士スピードウェイ。ピットには、対照的な思想で仕立てられた2台のホットハッチが、熱気を放ちながら休んでいる。
自分の腕を磨き、手のひらから伝わるタイヤの感触を頼りにクルマとの純粋な対話を楽しむためのGTI。それは、アナログな温もりを残した最後の格闘技だ。一方で、テーラーメイドスーツの裏に最先端の電子防壁を幾重にも忍ばせ、路面状況もドライバーのスキルすらも問わず、誰もが圧倒的な速さと安全性を引き出せるR。それは、デジタル技術がもたらす究極の包容力である。
どちらが優れているかという議論は無粋だ。重要なのは、東京から我々を平穏無事に運んでくれた116PSのeTSIから、ダイレクトな265PSのGTI、そして四輪を緻密に操る333PSのRに至るまで、すべての根底に「Engineered for everyone(技術の民主化)」というフォルクスワーゲンの哲学が見事に貫かれていることだ。
日常の退屈なほどの完璧さをベースラインにしながら、いざサーキットに解き放たれれば、クルマを操る歓びを異なるベクトルで極限まで増幅させてみせる。ゴルフ8.5世代。このハッチバックの形をしたメートル原器は、まだまだライバルたちに静かなる絶望を与え続けることだろう。トップギア ジャパンの我々としては、このドイツ製の緻密な狂気を、大いに歓迎したい。
写真:上野和秀




