グランドセイコーから「キャリバー9S」手巻メカニカルムーブメント誕生25周年を記念した限定モデル「SBGW325」が登場した。職人が手染めした本藍染クロコダイルストラップに、3日間動き続ける高精度な手巻きムーブメントを搭載。まるで極上の自然吸気エンジンとビスポーク内装を備えたGTカーのような、クルマ好きの所有欲を刺激してやまない80万円オーバーの特別なタイムピースの魅力に迫る。
我々クルマ好きは、根本的に「不便」を愛する病に侵されている。
ダッシュボードのナビゲーションシステムがGPSで原子時計並みに正確な現在時刻を教えてくれる現代において、数日放置しただけで息絶えてしまう機械式時計をわざわざ手首に巻き、有難がっているのだ。それはまるで、モーターの強烈なトルクとシームレスな無段変速の快適さを知っていながら、わざわざ重たいクラッチペダルを踏み込み、Hパターンのシフトレバーをガキガキと動かすマニュアルトランスミッション(MT)車をガレージの特等席に収めるようなものである。我々は「機械を自らの手で操っている」という実感を、何よりも尊ぶ生き物なのだ。
1960年の誕生以来、正確さや美しさといった腕時計の本質を追求し続ける日本が世界に誇るマニュファクチュール(自社一貫製造時計メーカー)、グランドセイコー。彼らから、そんな我々の偏執狂的な「マニュアル愛」を極限まで刺激する限定モデルが発表された。グランドセイコーの真髄である「キャリバー9S」初の手巻メカニカルムーブメント誕生から四半世紀(25年)の節目を祝うアニバーサリーモデル、「SBGW325」である。2026年10月9日に世界限定600本(うち国内450本)で発売されるこの時計の希望小売価格は、803,000円(税込)となっている。
まずは、シースルーのボンネット(裏ぶたのサファイアガラス)から覗くパワートレインに目を向けよう。搭載されるのは、手巻メカニカルムーブメント「キャリバー9S64」だ。日常の腕の振りでゼンマイを巻き上げる自動巻きローターという「オートマチック トランスミッション」を潔く削ぎ落とし、純粋にリューズを手で巻き上げたゼンマイの力だけで時を刻むこのムーブメントは、まさにレスポンスの鋭い大排気量の自然吸気(NA)エンジンである。28,800振動/時(8振動/秒)という高回転でビートを刻みながらも、最大巻上時には約72時間(丸3日間)も動き続けるロングツアラーとしての強靭なスタミナを誇る。平均日差+5~-3秒という極めて高い静的精度は、極限までバランス取りされたクランクシャフトやピストンのように、職人の手による恐ろしいまでのチューニングの賜物だ。
そして、ドライバーが常に視線を送るメーターパネル、すなわちダイヤルには特別なヒストリーが宿っている。2001年に誕生したキャリバー9S54(初めての9S手巻ムーブメント)搭載の初代モデル「SBGW003」の意匠をオマージュし、グランドセイコーとしては稀有なアラビア数字のインデックスを採用しているのだ。浮き出し加工によってくっきりと立体感を与えられたインデックスは、視認性を極めたクラシックカーのアナログメーターそのものである。そこに組み合わされるのは、日本の藍染文化から着想を得たという、底知れぬ深みを持つネイビーカラーのダイヤルだ。
さらに我々のマニア心を加速させるのが、手首に直接触れるインテリア(ストラップ)の偏執狂的な仕立てである。装着されるクロコダイルストラップには、なんと職人が手作業で染め上げる「本藍染」の技法が用いられているという。時間をかけて染め上げられた奥深いネイビーは、英国の超高級GTカーのビスポーク部門が、顧客のわがままに応えて特別に設えたフルレザーインテリアのような凄みと色気を放つ。さらに、柔らかな着け心地のシュリンク柄牛皮革ストラップまでもが付け替え用として付属する念の入れようだ。しかも、どちらのレザーもLWG(レザーワーキンググループ)という持続可能なレザー生産を目指す非営利組織の認証を取得した環境配慮型のタンナーで生産されている。大排気量エンジンを積んでおきながら、内装材には最先端のサステナブル素材を用いる現代のハイパーカーのトレンドを、しっかりと押さえている点も心憎い。
この芸術的なメカニズムと外装は、外径37.3mm、厚さ11.7mmという小ぶりでエレガントなステンレススチール製ケースに収められている。防水性能は3気圧の日常生活用防水に留まるが、これは「サーキットのパドックで小雨に降られる程度なら耐えうるが、豪雨の泥濘地には絶対に持ち込んではいけない」ピュアスポーツカーの最低地上高と同じだ。タフネスをひけらかすダイバーズウォッチ(SUV)とは違い、あくまで紳士的に扱うべきGTカーなのである。
裏ぶたには、「LIMITED EDITION」と「1 OF 600」の文字が誇らしげに刻まれている。ダッシュボードに輝くシリアルナンバープレートと同じで、自分が世界でわずか600人の幸運なオーナーの一人であることを、時計を外すたびに実感させるニクい演出だ。ちなみにこのモデル、販売されるのはグランドセイコーフラッグシップブティック 銀座並木通りをはじめとする直営ブティックやオンラインのみとなっている。特別なモデルは特別なディーラーでしか買えないという、スーパーカーの世界でお馴染みのエクスクルーシブな販売方式である。
80万円オーバーの手巻き時計。冷静な一般人から見れば、時刻を知るだけなら数千円のクオーツ時計で十分だと呆れられるだろう。しかし、愛車のカーボン製エアロパーツや軽量鍛造ホイールに平気で100万円を注ぎ込む我々からすれば、25年の進化が詰まった最高精度の手巻きエンジンと、職人が手染めした藍染インテリアを備えたこの精密機械が80万3,000円というのは、むしろ良心的なプライスにすら思えてくるから恐ろしい。人間の金銭感覚とは、かくも環境によって容易にバグを起こすものである。
日曜日の早朝、冷え切ったガレージで愛車の暖機運転を待ちながら、指先でカリカリと小気味良い音を立ててリューズを巻き上げる。電子回路やモーターが一切介在しない、純粋な歯車とゼンマイとの対話。それは、クルマ好きだけが知っている「機械に生命を吹き込む」という至極の儀式である。あなたの左腕には便利なスマートウォッチではなく、最高に手のかかる「手巻きのGTカー」こそが相応しい。



