アウディが発表した1億円の新型スーパーカー「ヌヴォラーリ」。そののっぺりとしたデザインは、またたく間に車好きたちの間で賛否両論の嵐を巻き起こした。なぜ我々はこの車にこれほどまでに激怒し、熱く議論してしまうのか? 実は、あなたが不満を抱いている相手は車ではなく、あなた自身なのかもしれない。トップギア流のシニカルな視点で、この車の真の姿を紐解いていこう。
グレーでのっぺりとした石版(スラブ)にしては——もちろん、これは最大限の愛情を込めて言っているのだが——アウディ「ヌヴォラーリ」の発表は、半端ではないほど強烈な意見の嵐を巻き起こした。
これらの意見の一部は、ヌヴォラーリの基本スペックや価格設定に関するものだった。特に、意地悪な言い方をすれば「スタイリングをすべてエアブラシで消し去ったランボルギーニ テメラリオ」とでも呼ぶべき代物に、アウディが50万ポンド(1億円)の値を付けたことに対してである。
しかし、それよりもはるかに多くの意見が、その見た目に関するものだった。これ自体は珍しいことではない。速くて高価な車のデザインというものは、特有の怒りを引き起こす傾向があるからだ。
たとえば、フェラーリ「Luce(ルーチェ)」(あんな醜い車はこっちから願い下げだから、どうか持って帰ってくれ)を例に挙げてみよう。そのデザインは無数の熱い議論を生み出したが、ファミリー向けのウェブサイトにそのまま掲載できるような真っ当な意見はほんの一握りしかなかった。
だがルーチェの場合、少なくとも「(1) 突然変異した日産 リーフ」か、「(2) 突然変異したリーフが、さらに小さな突然変異した日産 リーフを産み落としている姿」に見えるという、大まかな意見のコンセンサスは存在した。
一方、ヌヴォラーリにはコンセンサスがまったく欠如している。その角張ったモノリス(石柱)のようなフォルムを個性のないものだと見る者もいれば、アグレッシブだと見る者もいる。二番煎じだと見る者もいれば、オリジナルだと見る者もいる。そして驚くほど多くの人々が、そのフロントエンドに「口ひげを生やしたドイツの独裁者(アドルフ ヒトラーのこと)」の姿を見出しているのだ。
参考までに言っておくと、私はヌヴォラーリを結構気に入っている。カーデザインの世界では、あまりにも長い間「曲線」が我が物顔で振る舞ってきた。そろそろ「石版」が脚光を浴びてもいい頃合いだ。それに、スーパーカーを綺麗に積み重ねて保管したいという奇特なバイヤーの要望に、ようやく誰かが応えてくれたのは喜ばしいことではないか。
しかし、ここからが私の言いたいことだ。ヌヴォラーリは単に意見を二分したのではない。意見を千々に砕き、粉砕してしまったのだ。意見の一致がまったく見られない。一体何が起きているのだろうか?
私には一つの仮説がある。確固たる証拠は何もないが、まあ今週の自動車業界はニュースが少なくて静かだから、このまま話を進めさせてもらおう。
ヌヴォラーリがこれほどまでに強烈な意見を生み出すのは、デザインが欠如している「にもかかわらず」ではなく、デザインが欠如している「からこそ」なのだ。それは、我々が自分自身のノイズを投影するための白紙の石版(ブランクスレート)である。解釈の余地を何も与えてくれないからこそ、我々は自分たちでその空白を埋めようとするのである。
この手法は効果的だ。ヌヴォラーリは、取調室で容疑者が自白するまで無言のまま石のように座り続ける、白髪交じりのベテラン刑事のようなものだ。
映画『2001年宇宙の旅』のモノリスであり、小説『白鯨』のモビー ディックであり、ジェイ ギャツビー(小説『華麗なるギャツビー』の主人公)が見つめる緑色の光なのだ。
ヌヴォラーリはロールシャッハ・テスト(インクの染みを見て何を想像するかで心理状態を分析する性格検査)である。インクの染み自体は馬ではない。あなたがインクの染みの中に馬を見るのは、あなたの母親が馬に食べられたからだ。
ヌヴォラーリの奥深くを覗き込めば、それはあなたの魂の最深部を映し出すだろう。私は心理学者ではないが、心理学のポッドキャストを3つほど聴いたことがあるので、ここで私が言っていることは間違いなく隙のない完璧な理論だ。つまり、これは「鏡」なのだ。
もしあなたがヌヴォラーリをアグレッシブだと感じたり、期待外れだと感じたりするなら、そう、それは車そのものよりも、あなた自身について多くのことを暴き出しているのかもしれない。
したがって、ヌヴォラーリは至高の精神分析医である。何も語らず、患者が意図した以上に自分自身をさらけ出すのを許すのだ。ジークムント フロイトもさぞかし誇りに思うことだろう。
もっともフロイトは、自分の患者は全員、親に対して見だらなことをすることに夢中になっていると信じていたわけだが。後に誰もが、フロイトが語っていたのはフロイト自身のことだったと気づいたのだ。
だから、「ヌヴォラーリは魂を映す鏡である」という私の仮説は、車そのものよりも私自身について雄弁に語っていると反論する人もいるかもしれない。この解釈に基づけば、ヌヴォラーリはただの車であり、私は物事を深読みしすぎて鏡についてばかり語る変人ということになる。
しかし、これは私の主張を証明しているに過ぎない。私はヌヴォラーリを見て、物事に鏡を見出してしまう人間としての自分を暴き出された。それこそまさに鏡の役割ではないか。私は論理の再帰的ループに囚われてしまい、もはや逃げ出すことができない。
これこそがヌヴォラーリの仕業なのだ。この理論に反論しようとする試みはすべて、私の主張を証明する結果となる。ヌヴォラーリを真に理解することは、我々自身を理解することである。おそらくTG Web版の編集長は、二度と私にカーデザインに関する記事を書くよう依頼してこないだろう。
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=海外の反応=
「画家として挫折して、残念な第二の人生を歩んだあの有名な『ヒゲの人物』はオーストリア人だけどな。まあ、彼がやったアンシュルス(オーストリア併合)のせいで、その辺の線引きは曖昧になっちゃった感はあるけど(笑)」
「頼むからこういう記事はもう書かないでくれ。14歳の中学生が初めてデザイン理論という言葉を知ってドヤ顔してるみたいだぞ。『ヌヴォラーリは単に意見を二分したのではない。意見を千々に砕き、粉砕してしまったのだ』とかさ。いや考え直してみると、あんたはすでにこういう記事を書くのをやめてて、AIに丸投げしてるっぽく聞こえるな。だから俺はこれ以上先を読むのをやめたよ」
↑「正直言ってそう感じるよな。最近のこの記事のいくつかは本当に文章がひどいぜ」
「筆者自身が何かしらの投影をしてるだけだと思うけどな。この車に関して、怒りや熱狂なんて全然見たことないぞ。少なくともLuceやType 01の時にあったような騒ぎにはなってない。普通にかっこいい車だよ。価格はふざけてるし、スペックもふざけてる。俺は腰が悪いから、仮に金があって、なぜかアウディが俺に売ってくれると言ってきたとしても買わないけどな。でもそれって、他のたくさんの車にも同じことが言えるだろ」
↑「俺はネット上でこの車に対するガチのヘイトを結構見たけどな(Luceやジャガーと一緒に並べて『呪われた三位一体』とか呼んでるミーム画像がたくさんあった)。俺は普通に好きだし、アウディのバウハウス的な美学にも合ってると思うから意外だったんだけど。あんたの言う通りだと思うよ。腰が痛くない連中からすれば、自分たちが手が届く、あるいは憧れる対象を探してたのに、1億円の限定車じゃハナから蚊帳の外に置かれてるからな」
「俺は初めて見た瞬間から気に入ったぜ。これがアウディの『古くて新しい時代』の幕開けになってくれることをマジで願ってるよ。30年以上経って、ようやくアウディらしい見た目の車を作ってくれたって感じだ」
「ヌヴォラーリを見ても何も感じなかったわ。鏡に映った俺自身が『どうせ買えないんだからお前の意見なんて無価値だぞ』って語りかけてきただけかもしれないが」
「車自体は嫌いじゃないよ、ただの車だし。俺たちは意見を求められてるだけだろ(クリックベイトってやつだ)。でも、こいつを買って飾っておきたいかと言われれば微妙だ。だってエアサスでも組んでないと、うちの近所の道も、他のどんな道も走れないんだからな。でも、話題集めのデザインスタディとしては成功してるんじゃないか。PRチームはウハウハだろうよ。広告費を1ペニーも使わずにこれだけ話題になってるんだから。これが未来のアウディデザインの幕開けなら、まあ少なくとも今までとは違うし、最近よくあるスクリーンだらけのゴミみたいな内装よりはマシになってると思うぜ。あと、記事の最後の方の下りは笑えたわ」
「アウディは前任のデザイナーが自車のデザインを破壊し、キャビンを不快なほど醜くするのを止めなかった。その理由は彼ら自身にしか分からないがな。それで今度は、超富裕層向けの限定スーパーカーを前触れにして、大掛かりな軌道修正をせざるを得なくなったってわけだ。こんな不快な思いはしなくて済んだはずなのにな…」
「このコメント欄には絶望するよ。記事は最高に面白かったのにな。サム(筆者)、どうやら君は読者より優秀すぎるみたいで、彼らには君のユーモアを理解する資格がないらしい。君の言ってることは正しいかって? まあ十中八九間違ってるだろうけど、そんなのは最初から分かってることだ。だからこそ面白いんじゃん」
↑「あんな安っぽい釣り記事に付き合う義理はないってことだよ」
↑「書き終えた時に予想していた通りのコメント欄になったよ。クソ真面目な連中が、自分自身も、車も、この記事のことも、とことんクソ真面目に受け取ってるんだ。そうだよな。ここにはジョークや気軽な読み物なんて存在しないし、コメディを楽しむ余裕もない。『自分が笑えないのに、どうしてそれがジョークになるんだ?』ってやつだ。そんなのが延々と続いてるよな」
↑「一本取られたよ。俺はいつだって、挫折した画家が引き起こした大量虐殺の余波については死ぬほど真面目に考えてるからな。だから頼む、世界平和のために、みんな絵を買ってやってくれ。特に不細工な絵をな」
「俺は好きだよ。70年代のクサビ型スーパーカーのスタイリングや、初代TTとか美しいRosemeyer(ローゼマイヤー)のバウハウス的なデザインが大好物だからな。大満足だぜ。到底買える値段じゃないけど、見て楽しむことはできるからな」
「どうやら筆者は『バックルームズ(ネットミームの不気味な異空間)』でかなりの時間を過ごしてきたみたいだな」
「見た目なんてどうでもいい。フェラーリ3台分の値段がするんだぞ。最低でもフェラーリの1.1倍くらいの走りはしてくれるんだろうな? まったく期待できないが」
「素晴らしい解説だ! 全くその通りだと思う。俺がヌヴォラーリの何が嫌いかって(あるいはそれが俺の何を引き出しているかって)、アウディがランボルギーニの作品(テメラリオ)を横取りして、安っぽく手っ取り早くでっち上げたことだよ。普通こういう時は、元の車に優位性を持たせるために、エンジンの出力とか機能を少し落とすもんだ。なのにこいつらは、テメラリオのパワートレインを流用した上で、パワーを上げやがった。そしてアウディのバッジを貼り付けた。こんな『アウディ版テメラリオ』をたった12ヶ月で作ったんだ。経営的、財務的な視点から見れば完全に理にかなってるだろうよ。でも、シニカルでリスペクトに欠けてるだろ。俺がヌヴォラーリを嫌う理由はそこだ。というか、ランボルギーニの仕事と情熱をコケにしたアウディのやり方が嫌いなんだよ」
↑「アウディはランボルギーニの親会社なんだから、そのくらいのことする権利はあるだろ。それにテメラリオだって『モナ・リザ』みたいな芸術作品ってわけじゃなかったし、アウディがそれに手を加えたからってリスペクトに欠けてるとは思わんね」
「怒ってるっていうより、単に無関心って感じだな。このアウディを見ても何も響かない。デザイン的には何の魅力もないし、唯一見れるのはリアの部分くらいだ。そのリアにしても、テメラリオの面影がモロに残ってて笑えるレベルだけどな。唯一イラつくのは価格設定だ。デザインに関してはそのうち見慣れるかもしれないし、少なくともフェラーリ Luceほどは酷くないから、アウディへのせめてもの慰めは『そこまで盛大にやらかしてはいない』ってことだな」
「空力か冷却のための機能的なものなんだろうけど、フロントの大きな穴とリアの巨大なグリルはマジでデザインの設計ミスだろ。レンダリング画像だと、実際のコンセプトカーよりもフロントエンドがやたらデカく見えるのもマイナスだよな」
「10点満点中3点の釣り記事。『曲線が我が物顔で振る舞ってきた』のくだりはちょっと狙いすぎだな」
「ブガッティ シロンとジャガー Type 00の間に生まれた子供みたいだな…でも俺は好きだぜ!」



